第916回 歳時記(478) 4月15日 象を撃つ
今日は「象供養の日」。
象供養にはもっともふさわしくないタイトルだが、ジョージ・オーウェルの有名なエッセイに
『象を撃つ』(Shooting an Elephant 1936)
がある。この作品は丸谷才一が編んだ「英国短編集」にも収録されている。
「短編集」に収められたのはどれも小説だが、オーウェルのものはエッセイである。
こんな話である。
二十歳のオーウェルは当時英国領であった南ビルマのモウルメインで、インド警察の警官として勤務していた。
オーウェルは大英帝国に反感を持つビルマの人々に野次られ――特に仏教の僧侶の野次がもっともひどかったとか――精神的に参っている。
しかし若きオーウェルはすでに大英帝国に反感を持っていた。
当時のわたしはすでに帝国主義は悪だ、いまの職はなるべく速く放り出して逃げ出すにかぎるときめていたからである。
頭の中では――むろん口には出さなかったが――わたしは完全にビルマ人の味方で、彼らの圧制者である英国の敵だった。
(小野寺健訳)
しかし現実にはオーウェルはビルマ人に毎日野次られ続け、「僧侶の腹に銃剣を突き刺してやったらどんなに愉快だろうと思っていたのだ」。
そんなある日事件が起きる。
さかりのついた「飼象」が市場で暴れているとオーウェルに電話が入る。四四口径のウィンチェスター・ライフルを持ってオーウェルは現場へ行く。
暑い朝で現場が近くなると人々の反応はかえって鈍くなる。
これが東洋なのであって、遠くで聞いているときははっきりしている幹事の話が、現場に近づくにつれてあいまいになってくるのである。
……オーウェルのこの感想は、とてもよくわかる。
やがてオーウェルは象に踏み殺されたインド人の死体を見つける。オーウェルはウィンチェスターでは手に負えないと判断し、あらためて象狩り用のライフルを借りる。
問題の象は道路から八十ヤードのところに、こっちに左側を向けて立っていた(略)。
……象を見つけ、しかし飼象を撃ったら飼い主と揉めると思ってオーウェルは撃つのをためらう。しかし、
ところがそのとき、ふと自分のうしろにいる群集をふりかえったのである。
それはものすごい数だった。
すくなくとも二千はいて、しかもさらに刻々とふえている(略)。
わたしを見ている目は、まるで手品を始めようとする奇術師でも見ているようだった。
いつもは嫌いな男でも、魔法の銃を手にしているこの一瞬だけは、見てやる値打ちがあったのだ。
結局象を撃たないわけにはいかないなと、そのときわたしはとつぜん悟った。
二千人の意志によって否応なしに前に押し出されている自分をわたしはひしひしと感じていた。
……ここが全編中のクライマックスで、この直後オーウェルは「東洋における白人支配のむなしさ、ばかばかしさにはじめて気がついた」という有名な言葉を綴る。
「一見したところはいかにも(自分は)劇の主役のようである」
「だが現実には、後についてきた黄色い顔の意のまま動かされている愚かなあやつり人形にすぎないのだった」
と考える。ビルマの人と同じアジア人としては
「こっちに『意のままにあやつる』意志なんてないよ。西洋人があれこれ勝手に寸託しているだけ」
といいたくなるが、しかしこれは西洋の帝国主義国家に一度も占領されたことがない、極東の島国に暮らす人間の呑気な感想かもしれない。
若いオーウェルが「象を撃つか・撃つまいか」と悩むこの場面を初めて読んだとき、僕は咄嗟に大岡昇平『俘虜記』で藪に隠れた兵士大岡が、目の前を通るアメリカ兵を見て
「撃つべきか・撃たざるべきか」
と悩む場面を思い出した(結局撃たない)。
或いは大岡のほうがオーウェルの『象を撃つ』の文章をヒントにしたのかもしれない。
二十五ヤードの距離まで近づき、オーウェルは「上等なドイツ製」のライフルを構える。
ついに引金を引いてはみたものの、銃声も聞こえなければ反動も感じなかった。
命中したときにはそういうものなのだ(略)。
そのとたん、まだ弾丸があたってもいない感じだったにもかかわらず、不思議な恐ろしい変化が象に起こったのだ。
よろめきも倒れもしなかったのに、体の線という線が変わってしまったのである。
……ここはジョージ・オーウェル「一世一代」といいたくなる名文で、「銃を撃つ」ことの恐ろしさをこれほど生々しく伝える文章は、ほかにあまりないと思う。
ヘミングウェイはよく銃を撃つシーンを描くが、オーウェルに比べると僕にはその文章は粗雑に見える。
この後象は倒れるが、しかしタフな象はなかなか死なない。
オーウェルは心臓周辺に何発も銃弾を撃ち込むが、しかしそれでも象は死なない。オーウェルは遂にいたたまれなくなってその場を離れる。それから三十分も経ってからようやく象は死ぬ。
関川夏央と谷口ジローのコンビが象狩りをモチーフにした短編漫画を以前描いたが、銃弾を食らった瞬間「象が老いる=体の線が変わる」場面と、その後撃たれた象がなかなか死なない場面は、明らかにオーウェルのこのエッセイを参考にしていたと思う。
わたしがそんなまね(象を撃つ)をしたのは、ただただ馬鹿になりたくなかったからなのだということを見抜いた人がいるだろうか。
わたしは何度も考えたのだった。
……この一文で、この名エッセイは幕を閉じる。
象供養と聞いて僕が思い出したのは、こういう話である。
第915回 歳時記(477) 4月14日 未知なる人からの電話
今日は「SOSの日」。
1912年の今日、有名なタイタニック号が遭難し、世界で始めてSOS信号を打ったことにちなんで。
これはSOSとは違うが、水木しげるのエッセイ『カランコロン漂泊記』の第三章「忘れられない人々」に「不幸な”見知らぬ人”」という章がある。
抜粋してご紹介する。
夜の十時ごろ水木の元に未知の人から電話がかかってくる。
「ファンだから、会ってほしい」という申し出を水木はいったん断る。
すると相手は「自分の運命について長々と語り出す」。
自分はアメリカの兵隊と、日本人の歌手の間に生まれ、父は終戦後間もなくアメリカに帰り、母と二人で生活していたが、親類もあまり泣く、混血ということで戦後、学校でいじめられた(説明にかなり迫力があった)。
間もなく母は自殺、自分は身体障害者で仕事がないから、エリザベスサンダースホームに引き取られたということのようだ。
よく分からないが、車椅子で生活しており、水木漫画で救われたという話。
ある日、その車椅子がオートバイにはねられ、入院したところ、頭に癌があることが分かった(半年の命)。
そこで好きだったネパールの山で死ぬことにして電話してきたわけだ。
電話では「死ぬ」とは言わなかった。
間もなく、遺品くさい「新約聖書」 の古いものが送られてきたが、意味もなく迫力をもっていたので不思議に思っていた。
……それから半年後、エリザベスサンダースホームの牧師から水木に電話がかかってくる。
ネパールに行ったまま帰らないので捜しにいったところ、「彼」のボロボロになったシャツを山中で発見した。
これは、常識では考えられない発見だという。
「彼」に、出発前に、水木サンのものを読めと言われ、その牧師は全部読んだという。
そのせいで神通力を得ての発見だったのかもしれないが、骨は発見出来なかったという。
……水木翁はあっさり書いているが、優に長編小説一冊分に匹敵する運命がここに描かれていて、いつ読んでも息を呑む。
誰もいない山の中で、しかも異郷で一人死ぬというのは、一体どんな気持ちなのだろうと、時々想像してみる。
……水木翁は恐ろしいニヒリストでもある。
かつてのニューギニアの戦場を訪れ、戦友は死んだが自分は生きていることに高揚した翁は、その場で何とゲラゲラ笑い出す!
「生きるために戦友も見捨てる。これが長生きのコツです」
と、呆然となる荒俣宏に翁は平然とのたまったとか。
そんな水木翁であるから、こういうちょっと感傷的な文章は本当に珍しい。
「彼」の最後の電話がよほど印象深かったのだろう。
この「彼」だが遂に水木翁に直接会うことなく、ネパールの山中で孤独に死んだようだ。
ネパールの山の「荒涼とした」風景に惹かれる人は多いと聞く。そういう人は、大体孤独だ。
そのネパールの山を彼が「車椅子」で登ったというのがまず凄い。
そして彼の「ボロボロになったシャツ」をネパールの山で見つけたという牧師の話も凄い。
どちらの話も堂々たる奇跡で、奇跡というのは派手なもでは全然なくて、世間が知らないところでひっそり行なわれるのだなとつくづく思う。
柳田國男は『山の人生』の一章「山に埋もれたる人生」でこんな人物を紹介している。
西美濃山中で炭を焼いて働く五十ばかりの男がいた。
その年は不景気で女房は逃げ、男の下に十三になる男の子と女の子の二人が残る。
男は一生懸命働くが炭は売れず、男はその日食う米にも苦労する。
ある日また空手で炭焼き小屋に帰ると、二人の子供が「大きな斧を磨いでいた」。
おとう、これでわしたちを殺してくれと(二人の子供が)いったそうである。
そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。
それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。
……この事件を柳田は「偉大なる人間苦」と評した。
車椅子の「彼」の生涯もまた「偉大なる人間苦」と呼びうると僕は思う。
それにしても、世の中には哀しい人もいるもんだといつも思う。
それはその電話が最後だったから、かなりの迫力だった。
とにかくそういう事情だったなら、「会ってくれ」と言われた時、会ってやればよかったと今頃になって思う。
……と、水木翁は最後に書く。
翁の短編に『血太郎奇談』がある。
「早すぎる酒鬼薔薇少年」ともいうべき血太郎少年の「生涯」を描いた、個人的に「水木しげるの短編中の最高傑作」と思う作品だ。
血太郎とはどういう少年かというと、「生まれた瞬間から生きていくのが絶対不可能」と宿命づけられたような少年、といえると思う。僕は前から
「水木しげるは一体どこからこの『血太郎』というキャラクターを思いついたんだろう?」
と、ずっと不思議に思っていた。
或いはこの車椅子の彼との儚い「出会い」が、この稀有なる短編を生んだのかなと今は思う。
第914回 歳時記(476) 4月13日 吉行淳之介のこと
今日予告されていた北朝鮮のロケットが打ち上げられた。
このことをめぐってマスコミは連日大騒ぎだったが、いざ打ち上げられると今度は
「何があった!」
「詳細不明!」
とまた大騒ぎで正直呆れた。
「細大漏らさず」といった感じの加熱報道だったので、今回は打ち上げの瞬間を見られるのかと素人の僕は完全に勘違いしていた。
しかし毎日あれほど大騒ぎしておいて、いざことが起きたら『詳細不明!』では、フィクションの世界では完全にギャグだ。
1924年の今日吉行淳之介の誕生日(-1994)。
今朝北朝鮮のロケット打ち上げのニュースを聞いて、僕が思い出した吉行の故事がいくつかある。
それを以下に。
1962年のキューバ危機の際、吉行は友人である阿川弘之を訪ねてこういった。
「何か戦争になるらしいから花札でもやろうぜ」
そういって二人は原稿書きをやめて花札を始める。
徹夜の勝負は数晩に渡った。
80年代の反核ブームのころ、吉行も文学者の反核署名にサインしている。
「今はあらゆる戦争に核兵器を使うっていうんでしょ?」
「戦争イコール核だよね」
と吉行はインタビューで語っている。エネルギーとしての「核」より、核兵器つまり「戦争」に吉行の気持ちが向いていることがわかる。
三日間の軍隊経験(病気が見つかり奇跡的に除隊)がある吉行は
「僕は反戦というより厭戦」
とも語り、さらに署名について
「ご近所づきあい」
といった。これに噛み付いたのが吉行と同世代の批評家である故吉本隆明だった。
「吉行のような作家は明日空からミサイルが何十発降ってこようが、平然と男と女の話を書き続ける作家だとばかり思っていた」
と吉本は語り「ご近所づきあい」という吉行の言葉を差して
「こちらの尊敬の念を奪うようなことはいわないでくれ」
といった。これに対する吉行のリアクションはない。
ないがしかし、吉行は生涯いろんな人に批判されたが、吉本隆明のこの批判は吉行にとって
「もっとも胸に染みる批評」
だったのではないか?
その吉本の批判と並んで吉行にとってもう一つ彼の胸、というか吉行の「目」に染みた批判がある。
それは以下のようなものである。
たぶん1950年代の話である。
吉行はある短編(題不明)で、登場人物の若い女性に
「チョーセン人のくせに!」
という台詞をあえて吐かせる。
それは「その若い女の愚かさと、同時にそれでも憎めない彼女の愛嬌」を現わす台詞として作劇上どうしても外せない言葉だった、と吉行は後に書く。すると韓国から
「筆で書かれた物凄い達筆な手紙」
が吉行の元に届く。手紙は「チョーセン人のくせに!」という台詞を小説に書いた吉行に対する激烈な批判が綴られていた。
「これは答えなければ」
と若き日の吉行は決意し、未知なる韓国の読者へ手紙を書き、自分の真意をていねいに伝える。
するとすぐまた毛筆の返事が韓国から返ってくる。すぐ返事が返ってきたことを差して吉行は
「これで未知の韓国の読者が紳士であることがわかる」
と書く。韓国の読者は吉行の真意を理解したことを伝え、最後にこんな言葉を書く。
「しかし国あっての文学です」
朝鮮戦争が終った直後の時期なのだ。
「『国』という言葉が目に染みた」
と吉行は後に書いている。
今朝、北朝鮮のロケット打ち上げのニュースを見ていて僕が思い出した吉行淳之介の故事とは、以上のようなものであった。
第913回 歳時記(475) 4月12日 拳聖と『レイジング・ブル』
1989年の今日、シュガー・レイ・ロビンソン逝去(1921-)。
ボクシング史上の「拳聖」とも「パウンド・フォー・パウンド」ともいわれるロビンソンは、後世のモハメド・アリやシュガー・レイ・レナードに多大な影響を与えた。
アリの「蝶のように舞い蜂のように刺す」ファイト・スタイルは、ロビンソンを意識したとか。
それにレナードの「シュガー・レイ」というリングネームはロビンソンにあやかったものだ。
「シュガー」は「素晴らしい」といったような賛嘆の意味で、現代にもロビンソン、レナードに続く「三代目シュガー」を名乗るボクサーがいる。
「シュガー」シェーン・モズリーがそれだが、ジョー小泉氏は「シュガーを名乗るにはまだ早い」と以前いわれていた。
以前50年代のフィルムでロビンソンの映像を見たが、左のロングフック一発で対戦相手をKOしたシーンは驚いた。
素人目に見て、とても届く距離には見えないパンチが当たり、しかもそれで相手が倒れたことがショックだった。
今は衛星放送で簡単に見られるが、昔野球のメジャーリーガーのプレーを見ようとしたら、秋の日米野球くらいしかチャンスがなかった。
その短期間のオープン戦でメジャーリーガーの投手が披露した決め球が、日本の球界で流行ることが昔よくあった。
スピリットフィンガード・ファーストボールや高速スライダーがそうだった記憶がある。
ボクシングも似たところがあって、日本のボクサーの拳に海外ボクサーの残像を見ることが時折ある。
しかしロビンソンが一閃した左のロングフックは、僕はまだ日本のリングで見ていない。
そのロビンソンがキャラクターとして登場するボクシング映画があった。
マーチン・スコセッシが監督した『レイジング・ブル』(1980年)がそれで、主役はロバート・デ・ニーロ演じる50年代のミドル級王者ジェイク・ラモッタだ。
ロビンソンは実際にラモッタのライバルだったから、いわば敵役である。
名前は知らないが痩せっぽちな俳優がロビンソンを演じていて、実際にスマートな体格だったロビンソンにそれがよく似ていた。特に足の細さが似ていた。
元二階級制覇の畑山隆徳氏が「自分も足が細かったらトランクスを短くして足を見せる」と、以前いっていた。
90年代以降ボクサーのトランクスは膝に触れるほど長くなったが、50年代はまだ短くてロビンソンのスマートな体格がそれでより強調されていた。
ネクタイの太さと同じで、ボクサーのトランクスの長さにも時代の流行がある。これからも長くなったり短くなったりを繰り返すだろう。
ラモッタは一度はロビンソンからタイトルを奪い王座につく。
しかしリターンマッチで完敗する。これが「聖バレンタインデーの虐殺」と呼ばれる有名な試合で、ロビンソンに滅多打ちを食らうラモッタをスコセッシは嬉々として撮っていた。
この映画を初めて見た高校生のとき、デ・ニーロがロビンソンに一方的に打たれるシーンが不自然なほど長く続き、子供心に
「?」
と思った。
「打つ」場面ではなく「打たれる」場面を熱心に撮るのはつまりマゾヒズムなのだろうが、インテリ(スコセッシのこと)のマゾヒズムなんて田舎の高校生にわかるわけがない。
この映画についてはファイティング原田さんがスポーツ雑誌で「いい映画だ!」と絶賛していたこと、そして友人のボクシング部員が「スゲーリアルだったよ。でも『ロッキー』みたいじゃなかった……」といっていたことを覚えている。
モノクロ映画で、オープニングで静かなBGMをバックにデ・ニーロが一人リングでシャドーする姿がスローモーションで流れる。
これは素晴らしいシーンで、これがこの映画で最高の場面、といったらファンに怒られるかもしれない。
引退後の肥ったラモッタを演じるため、デ・ニーロはわざわざ体重を数十キロ増やす。
これは映画のラストの、ほんの短い場面なのだが「こんな短い場面のために体重を……」とゾッとなったのを覚えている。
やはり役作りのために奥歯を抜いた松田優作のエピソードとともに、役者という存在の恐ろしさを子供の僕らに見せつけた、そんな忘れがたい場面だ。
この作品でデ・ニーロはオスカーを得た。
もう一つ忘れられないことがある。
デ・ニーロの若い妻を演じたのは当時新人のキャシー・モリアーティという女優だった。
「妖艶」といってもいいようなグラマーな美人だが、彼女は何と高校生の僕とほぼ同い年だった(!)。
「年が近いのにこの大人っぽさは一体なんだ?」
と愕然となったことを今でもはっきり覚えている。
映画の冒頭、デ・ニーロ演じるラモッタがキッチンで悩んでいる。それを見て若妻がいう。
「どうしたの?」
「俺の手を見ろ」
デ・ニーロは自分の手をかざす。
「とても小さい。ヘビー級では戦えない(注、何といってもボクシングの花形はヘビー級)。でも戦えば本当はジョー・ルイス(ヘビー級名王者)だって倒せる。でも戦えない」
そういって嘆くデ・ニーロを若妻は慰める。
このシーンを見ながら高校生の僕は、自分と同世代の女の子が遥か年上の男を一生懸命慰めていることに、何というか「義憤」のようなものを一瞬感じた(苦笑)。
あの女優さんは今でも元気だろうか?
第912回 歳時記(474) 4月11日 フランスの大学生
1962年の今日、マイケル・カーティス逝去(1888-)。
カーティスの代表作『カサブランカ』(1942)は第二次大戦中ハリウッドで撮られた映画。
ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンによるラブロマンスの古典としてあまりにも有名だが、この映画は「反ナチス」「反ヴィシー政権(ナチスに協力したフランスの政権)」を掲げるプロパガンダ映画でもあった。
ボギーが経営する酒場でドイツ軍人が軍歌を歌い、それに対抗してフランス人の愛国者で地下活動家であるラズロがバンドにラ・マルセイエーズを演奏させ(ボギーがひそかに許可する)、やがてそれがドイツ軍歌を圧倒する大合唱になる。
正直にいうとあまりにも露骨なプロパガンダシーンではある。しかし、感動的だ。歌い終え感極まった女性が
「自由フランス!」
「フランス万歳!」
と叫ぶシーンでは自分がフランス人でもないのにジーンとなった。
ラストの夜の空港ではボギーの友人の警察署長が、ヴィシー水(ヴィシー政権のシンボル)をゴミ箱に捨てるというあざとい演出もある。
ヴィシー水のボトルが捨てられるとき、下手な効果音が大仰に鳴っていて、子供心にシラけたことをはっきり覚えている。
せっかくの名画が最後になって台無しにされた気がしたのだが、しかし効果的ではある。
カーティスは典型的な「娯楽映画の職人監督」で、政治的プロパガンダ(宣伝)は、彼のように徹底的に「非政治的な職人」が撮ったほうがむしろ鋭いということもよくわかる場面でもあった。
遠藤周作が処女作『フランスの大学生』で、戦後フランスへの留学体験を書いている。
1950年、戦後日本初の留学生としてフランスを訪れた遠藤は、ヴィシー政権下のフランスの「レジスタンス」について色々調べる。
彼らは、その立場の差を超越して、心あるヒューマニストや、カトリックの者と手を取り、ナチスムの暴力に抗したのであるが、他方、ある種のフランス人は逆に、ナチストと協力し(フランス人はこれらを共犯者=コラボラトウールと呼んでいる)、単にフランスを裏切ったのみならず、レジスタンスの闘士を、ゲシュタポ(ドイツ秘密警察)と共に訊問したり、拷問したり、殺したりしたのである。
(四つのルポルタージュ)
……華やかなレジスタンスの栄光の影で、実はナチスに協力したフランス人が同国人のフランス人を殺していたという史実は今は知られているが、遠藤がこれを知ったのは1950年。
戦後まだ五年目で、その衝撃は大きかったと思う。
抗独運動は少なくともアルデッシュ県では、うつくしいヒューマニズムの結束体ではなかったのです。
この反ファシズムの戦士たちの間にさえ反乱があり相互の捕縛処刑がありました。
……と、遠藤はレジスタンス内部に「内ゲバ」があったことまでつきとめる。
遠藤はモンドンという男が数十人のフランス人男女を銃殺し、「フォンスの井戸」へ捨てたことを知る。
ドイツへの協力者と見られたから殺されたのだが、それが本当はどうかはわからない。裁判もなかった。
このフォンスの井戸を訪問する場面が『フランスの大学生』のクライマックスなのだが、章題に「ルポルタージュ」とあるがこの場面は完全に「小説」で今回の引用には適さない。
レジスタンス内部の内ゲバや、一部フランス人がナチスに協力したのは史実と思うが、しかし若き遠藤周作は何故こんなに執拗に「フランス人がもっとも忘れたいフランスの暗部」を探ったのだろう?
やはり孤独だったんだろうな、と思う。
「お前は日本人か、日本人は何故あんな残酷なことをしたのか」
と人々は時々ぼくにききます。
彼らは、あのゲシュタポの拷問を受けたゆえに日本のそれも許せないという怒りがあるのです。
もちろん、普通、フランス人はぼくには親切です。
しかし、月に一回くらい、そのような質問が不意に発せられる時、ぼくは唇をかむだけで黙っています。
……こういう(底意地の悪い)質問を、まだ戦争の爪痕が生々しい異国で浴びるのはつらかっただろう。
若き遠藤周作が執拗にフランスの暗部を探った気持ちが、何だかわかるような気が僕はする。
夏目漱石はロンドン留学中に親友正岡子規の死を知るが、遠藤もまた尊敬する先輩原民喜の死をリヨンで知る。
子規は結核による病死だが、原民喜は鉄道に跳ねられた自殺である。
今日、原民喜から手紙が来た。
「これが最後の手紙です。去年の春はたのしかったね。では元気で」
そして墓碑銘と悲歌という二つの詩がそえてあった。読みながら手が震えた。
ぼくはこの作家が、死なねばならない理由、その死の姿も、すべてはっきりと見えた(略)。
先輩や友人は一人一人、死んでいく。
生に対するこの悲しみを単に悲しみといえるだろうか。
恐怖が、胸をいっぱいにした。椅子が崩れて、動けなかった。
……孤独の究極のような場面で、あの陽気な孤狸庵先生がここから出発したのかと思うと、僕は何だかしょんぼりしてしまう。





